皮肉
母はタバコが大嫌いだった。
母の兄はヘビースモーカーで、還暦を迎えてすぐに末期の肺がんが見つかり、まもなく亡くなったのだったが、もちろん原因はタバコしかないと考えていた。
私が幼い頃に習っていたピアノの先生(女性)も、近づくと香水よりも先にぷわんとタバコの香りがするくらいのヘビースモーカーだった。今考えても余計なお 世話だと思うのだが、母はある雑誌に載っていたタバコで真っ黒になった肺の写真を差し出して、「こんな風になる前に先生もやめましょうよ」と本気で説得し た。そう、別にレッスン中に吸われるわけではなく、私たち親子は副流煙の害にあってもいないのに、である。
さらに、昔住んでいた家の隣人は夫婦揃っての愛煙家だった。しかも我が家のほうに向いて付いている換気扇の下で吸うらしく、冬はいいが、夏は開けっ放した 家の中に、蒸し暑い風に乗ってプーンとあの嫌なにおいが漂ってくるのだ。母はヒステリックに大声で「くさ〜〜〜いっ!」と叫ぶと、聞こえよがしにピシャッ と叩き付けるように窓を閉めたものだった。
母がこんな調子だから、私自身もタバコの煙が大嫌いで、今までに一度も吸おうと思ったことはないし、将来もタバコを吸う人とは絶対に一緒にならないだろう と思っていた。ところが、である。人生はそんなにうまくはいかないもので、好きになってしまった人は愛煙家だった。それだけで母には無条件に反対されそう な気がした。母は紹介した彼(今の主人)の人と也は認めてくれたようだったが、案の定タバコを吸う人が身内になることを受け入れたくない様子で、何かにつ けてはそれが話題にのぼり、その度に母とは口も聞きたくない思いだった。
そんなある日、母から彼に直接手紙が届いた。その内容は「結婚は認めるが、タバコをやめない限りうちの敷居は跨がせない!」という挑戦状だった。タバコが いかに身体に悪いかということ、タバコが命を縮める原因になれば先立たれる娘は不幸になるということ、タバコ1つやめられない人間が大きくなれるはずがな いということなどが、長々と書かれていたように記憶している。すごい母である。それもこれも娘を思うあまりの行動なのだが、頑固な彼にはかえって逆効果 だったようで、さすがにカチンときたらしく、「やめる努力はしてみようと思いますが、やめますというお約束はできません」と返事を出した。今考えれば、これもまたすごいことだ。誠意をもって正直な思い を伝えたつもりなのだろうが、彼もかなりの強者である。その後本数はだいぶ減ったものの、お約束どおりやめてはいない。
母はまさか自分自身が肺がんで苦しむことになるとは夢にも思わなかったろう。皮肉とは、まさにこのことである。会社を休んで看病にあたる父に、毎日のように泣きついていたこともあったというから、さすがに「なんで私が・・・」という思いは強かったのだろうと思う。
そして今、私の弟の1人がどこで覚えたのか、いつの間にかタバコを吸うようになっている。母が見たらなんと言うだろう。そう思いながら、父もわたしも、そ してもう1人の弟も、誰も彼に何も言えずにいる。たぶん同じ思いで。「お母さんが生きてたら悲しむよ」と言いかけて、どこからともなく「タバコを吸わなく てもがんになる人もいる。タバコを吸っていてもがんにならない人もいる・・・」という声が聞こえてくるのである。
「他人に対してしたことは、自分に必ず返ってくるんだよ」
と母がよく言っていたけれど、こんな悲しい形で返ってくるなんて辛すぎる。
それにしても母のひと言ひと言は、実に深かったんだなぁと思う。
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